ヨーロッパの大航海時代にはコロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、マゼランという偉大な航海者がいた。
アジアにも凄い航海者がいた。明の鄭和(1371〜1434)である。
鄭和は雲南省のイスラム教徒の家に生まれ、宦官として明の永楽帝に仕えていた。
永楽帝は外交政策を積極的に行った皇帝で、自らモンゴル遠征を行ったほか、南海の国々(東南アジア)にも使節を派遣して情勢を探らせていた。
そして様々な報告を元に、鄭和に命じて大規模な南海遠征を行わせた。
中国では「中華思想」にもとづき、昔から周辺の国の君主を家臣(王)として認めさせた上で土産物を持ってこさせた上で、それに返礼をするという「朝貢」を行ってきた。
永楽帝の目的もそれだった。
1405年、鄭和の指揮する大船団が、総勢2万8000人もの人員を乗せて、上海近くの港を出港した。鄭和が指揮官に選ばれていたのは彼が永楽帝の信頼を得ていた事と、イスラム教徒だったためである。南海の国々にはイスラム教徒が多いため彼らと交渉する上で有利に働く為だった。
鄭和は1405〜1431年の間に7回もの大航海をなし得ている。最も遠い地点はアフリカ東海岸(現ケニア)にまで到達している。
遠征の成果は30以上の国々が明に朝貢するようになった。
アジアにも凄い航海者がいた。明の鄭和(1371〜1434)である。
鄭和は雲南省のイスラム教徒の家に生まれ、宦官として明の永楽帝に仕えていた。
永楽帝は外交政策を積極的に行った皇帝で、自らモンゴル遠征を行ったほか、南海の国々(東南アジア)にも使節を派遣して情勢を探らせていた。
そして様々な報告を元に、鄭和に命じて大規模な南海遠征を行わせた。
中国では「中華思想」にもとづき、昔から周辺の国の君主を家臣(王)として認めさせた上で土産物を持ってこさせた上で、それに返礼をするという「朝貢」を行ってきた。
永楽帝の目的もそれだった。
1405年、鄭和の指揮する大船団が、総勢2万8000人もの人員を乗せて、上海近くの港を出港した。鄭和が指揮官に選ばれていたのは彼が永楽帝の信頼を得ていた事と、イスラム教徒だったためである。南海の国々にはイスラム教徒が多いため彼らと交渉する上で有利に働く為だった。
鄭和は1405〜1431年の間に7回もの大航海をなし得ている。最も遠い地点はアフリカ東海岸(現ケニア)にまで到達している。
遠征の成果は30以上の国々が明に朝貢するようになった。
コメント
で、SSはキナ臭w