■古代のイギリスである「ブリテン(グレートブリテン島)」の原住民はケルト族でした。
野生の蜂蜜が豊富に採れたため、彼らは蜂蜜を発酵させて作った「蜂蜜酒(ミード)」を盛んに飲んでいたとされています。
古い資料では、ミードのほかにリンゴ酒も飲まれていたと記録されていますが、それほど普及してはいなかったようです。
さて、ブリテンの人々に愛飲されたミードですが、人口が増え森林が伐採されると、その需要の高まりとは反対に、野生の蜂蜜が減少していきます。
蜂蜜は貴重な甘味料としての役割もありましたので、通常の生活のための用途が優先され、ミードがあまり作れなくなりました。
■そこで考え出されたのが、代用品として発芽させた穀物を利用する、ということでした。
代用品を混和して作ったミードは、当初は質の悪いものでしたが、改良を重ねることによって、品質は向上していきました。
しかし純粋な蜂蜜のみで作ったミードには到底及びませんでした。
それでも、安価な代用品入りのミードは一般庶民の間で出回ります。
一方で、蜂蜜だけで作っていた純粋なミードは王侯貴族の高級酒として定着します。
■そこでこの2種類を区別するために、穀物酒の呼称として「エール」という言葉が登場したと言われています。
■紀元前55年、ローマのシーザーがブリテンに侵入、その後5世紀初頭まで古代ローマの統治になります。
こうしてイギリスが「ブリタニア」と呼ばれた時代には、ローマ人がワインを愛飲していたこともあり、エールに関する記述はほとんどありません。
ただ、この時代でも海を渡って運んでくるワインは一般の人々にとっては手の届かない高価な酒だったので、庶民はもっぱら穀物酒である「エール」を飲んでいました。
5世紀、ゲルマン民族の一系統であるアングロサクソン人が移住してきてケルト人を圧迫、ブリテンの大部分を支配します。
これに伴って、イギリス全体にエールが定着、以降のビール大国への歩みが始まったのです
■イギリスには、6世紀頃に大陸からアングロサクソン人が移住してきます。
これと共にキリスト教の布教が始まり、教会が各地に建てられました。
8世紀頃からは教会は、社会の中でも重要な地位を占めるようになります。
人々が教会へ行って様々な教えを請うことは日常的になり、
教会や修道院の周りには、訪問者や巡礼者のための飲食や宿泊の施設が数多く現れました。
これが後の「エールハウス(居酒屋)」や「イン(宿泊所)」の原型となっています。
■9世紀末には、おびただしい数のエールハウスが、都市部だけでなく小さな村にも開業しました。
12世紀末から13世紀頃になると、それらが軒を並べて林立するようになり、さらに、宿・食・エール、全てを備えた商業施設「イン」が登場します。
巡礼の流れは絶えずやってくるため、通過路となる地域に経済的にも潤いました。
しかしそこには悪徳商人も横行し、被害を蒙る巡礼者が増えてきました。
14世紀後半、国王リチャード2世が義務付けたのが看板です。
教会や修道院への巡礼を奨励する一方で、巡礼者が安全に旅をできるように、酒を扱う商業宿泊施設には、戸口にそれと判別できる看板を掲げさせたのです。これがインの看板(イン・サイン)となります。
エールハウスでは軒先に目印としてほうきを掲げ、これは「エールステーク」と呼ばれました。
■エールは生活必需品。中世までビール作りは家事の項目に数えられ、女性の仕事でした。
各家庭に伝統のレシピがあり、その家の娘が嫁に行く時の嫁入り道具は、家の伝統のレシピとビール仕込み用の鍋でした。
それほど、女性たちはビール作りに習熟していたとも言えます。
エールハウスが繁盛していき、新規参入が相次いでいくと、ビール作りができる魅力ある女性は、エールハウスの主人になっていきます。
これらエールハウスの女性は「エールワイフ」と呼ばれていました。
旨いエールビールが作れるエールワイフは尊敬され、男性達に人気がありました。
エールワイフは男性のアイドルでもあったのです。
●反面、エールワイフは魔女のようにも考えられていました。
エールハウスによっては、分量を偽ったり、混ぜ物をしたビールを売りつけられたり、酔った客の財布が抜き取られることがあったからです。
そういったエールワイフへの刑罰は、例えば分量をごまかしただけでも火あぶりの刑に処せられるなど、特に厳しいものでした。
あまり良い逸話が残らなかったこともあってエールワイフは次第に減少し、男性がエールハウスの主人になっていきます。
■エールハウスはエールビールを飲ませる居酒屋でしたが、単なる酒場ではなく集会所の役割も果たしていました。
つまり、年齢の区別や貧富の差を越えて、皆が一緒にエールを楽しむことができる場所だったのです。
町や村のもめごとをみんなで話し合って解決する場所でもあり、裁判所のような役割も持っていました。
野生の蜂蜜が豊富に採れたため、彼らは蜂蜜を発酵させて作った「蜂蜜酒(ミード)」を盛んに飲んでいたとされています。
古い資料では、ミードのほかにリンゴ酒も飲まれていたと記録されていますが、それほど普及してはいなかったようです。
さて、ブリテンの人々に愛飲されたミードですが、人口が増え森林が伐採されると、その需要の高まりとは反対に、野生の蜂蜜が減少していきます。
蜂蜜は貴重な甘味料としての役割もありましたので、通常の生活のための用途が優先され、ミードがあまり作れなくなりました。
■そこで考え出されたのが、代用品として発芽させた穀物を利用する、ということでした。
代用品を混和して作ったミードは、当初は質の悪いものでしたが、改良を重ねることによって、品質は向上していきました。
しかし純粋な蜂蜜のみで作ったミードには到底及びませんでした。
それでも、安価な代用品入りのミードは一般庶民の間で出回ります。
一方で、蜂蜜だけで作っていた純粋なミードは王侯貴族の高級酒として定着します。
■そこでこの2種類を区別するために、穀物酒の呼称として「エール」という言葉が登場したと言われています。
■紀元前55年、ローマのシーザーがブリテンに侵入、その後5世紀初頭まで古代ローマの統治になります。
こうしてイギリスが「ブリタニア」と呼ばれた時代には、ローマ人がワインを愛飲していたこともあり、エールに関する記述はほとんどありません。
ただ、この時代でも海を渡って運んでくるワインは一般の人々にとっては手の届かない高価な酒だったので、庶民はもっぱら穀物酒である「エール」を飲んでいました。
5世紀、ゲルマン民族の一系統であるアングロサクソン人が移住してきてケルト人を圧迫、ブリテンの大部分を支配します。
これに伴って、イギリス全体にエールが定着、以降のビール大国への歩みが始まったのです
■イギリスには、6世紀頃に大陸からアングロサクソン人が移住してきます。
これと共にキリスト教の布教が始まり、教会が各地に建てられました。
8世紀頃からは教会は、社会の中でも重要な地位を占めるようになります。
人々が教会へ行って様々な教えを請うことは日常的になり、
教会や修道院の周りには、訪問者や巡礼者のための飲食や宿泊の施設が数多く現れました。
これが後の「エールハウス(居酒屋)」や「イン(宿泊所)」の原型となっています。
■9世紀末には、おびただしい数のエールハウスが、都市部だけでなく小さな村にも開業しました。
12世紀末から13世紀頃になると、それらが軒を並べて林立するようになり、さらに、宿・食・エール、全てを備えた商業施設「イン」が登場します。
巡礼の流れは絶えずやってくるため、通過路となる地域に経済的にも潤いました。
しかしそこには悪徳商人も横行し、被害を蒙る巡礼者が増えてきました。
14世紀後半、国王リチャード2世が義務付けたのが看板です。
教会や修道院への巡礼を奨励する一方で、巡礼者が安全に旅をできるように、酒を扱う商業宿泊施設には、戸口にそれと判別できる看板を掲げさせたのです。これがインの看板(イン・サイン)となります。
エールハウスでは軒先に目印としてほうきを掲げ、これは「エールステーク」と呼ばれました。
■エールは生活必需品。中世までビール作りは家事の項目に数えられ、女性の仕事でした。
各家庭に伝統のレシピがあり、その家の娘が嫁に行く時の嫁入り道具は、家の伝統のレシピとビール仕込み用の鍋でした。
それほど、女性たちはビール作りに習熟していたとも言えます。
エールハウスが繁盛していき、新規参入が相次いでいくと、ビール作りができる魅力ある女性は、エールハウスの主人になっていきます。
これらエールハウスの女性は「エールワイフ」と呼ばれていました。
旨いエールビールが作れるエールワイフは尊敬され、男性達に人気がありました。
エールワイフは男性のアイドルでもあったのです。
●反面、エールワイフは魔女のようにも考えられていました。
エールハウスによっては、分量を偽ったり、混ぜ物をしたビールを売りつけられたり、酔った客の財布が抜き取られることがあったからです。
そういったエールワイフへの刑罰は、例えば分量をごまかしただけでも火あぶりの刑に処せられるなど、特に厳しいものでした。
あまり良い逸話が残らなかったこともあってエールワイフは次第に減少し、男性がエールハウスの主人になっていきます。
■エールハウスはエールビールを飲ませる居酒屋でしたが、単なる酒場ではなく集会所の役割も果たしていました。
つまり、年齢の区別や貧富の差を越えて、皆が一緒にエールを楽しむことができる場所だったのです。
町や村のもめごとをみんなで話し合って解決する場所でもあり、裁判所のような役割も持っていました。
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