■ とある神話
所は中国、時ははるか昔の事である。体は人間で牛の頭を持つ神農という神がいた。
神農のお腹は水晶でできており、食べた物の様子がよく分かるので毒でも草でも食べて人間に食べられるかどうかを教えていたという。
ある日、彼は偶然お茶の葉を見つけた。
毒を食べた後にお茶の葉を食べると、腹の中が浄化されることを発見した神農は、以後毒を食べるたびにお茶の葉を食べて腹を清めていたという。
●時は昔の事である。一人の皇帝が狩に森に出かけたという。狩に疲れた彼は、お湯を飲もうと、従者に釜を使い水を沸かせていた。
しかし、場所は森のことである。ある葉っぱがひらひらと釜の中に入ってしまった。皇帝が怒るのを恐れた従者は、もう一度水を沸かそうとした。
しかし、のどが渇いていた皇帝は気にせずその湯を飲んでしまった。
意外にも、お湯よりもおいしい。
以後、皇帝はその葉っぱをお湯に入れて飲むようになったという。
■ お茶の始まり
●お茶に関わる神話は現在までたくさん残されています。しかし、実際のところ、お茶の始まりはまったく分かっていません。
一体誰がお茶を発見し、どのような目的でお茶を飲みはじめたのか・・・、今となっては想像するほか無いのです。
昔には野生の大型の樹からとられていたものが、徐々に栽培用に小型化して現在のように茶畑で栽培されるようになりました。
●お茶の原産地はインド北部から中国南部にかけての熱帯・亜熱帯地方であると考えられています。
唐の時代(西暦800年頃)、かの有名な陸羽が書いた『茶経』は「茶者、南方之嘉木也」(「茶は南方の嘉木なり」)で始まっており、
初期のお茶は南方で始まったと考えるのが定説です。特に雲南一体辺りではないかと考えている人が多いようです。
雲南には変わったお茶の飲み方が多くあり、それらは昔の飲み方がそのまま残っているのではないかと考えられています。
例えば、茶樹からつんできたばかりの茶葉を囲炉裏でいぶり、釜でお湯と一緒に煮るだけの飲み方などはごく初期の飲み方を彷彿とさせます。
●漢の時代(紀元前1世紀)に書かれた医学書『神農本草記』には「茶味苦、飲之使人益思、少臥、軽身、明目」などという記述が残されており、
すでにこの頃にはお茶の薬としての効能が知られていたという事になります。
また三国志で有名な後漢の名医華佗もお茶の効能について『食経』という本でふれています。
この頃のお茶は、上流階級の薬用として主に用いられていました。
●その後間もなく、お茶は薬用よりも嗜好品として主に上流階級の人々に愛飲されるようになりました。
三国時代のある文献には「以茶代酒」(お茶を酒にみたてて飲む)という記述が残されているようです。
■ 唐時代
●唐の時代にはお茶の飲む習慣はすでに全国に広まっていました。
この頃のお茶は、茶葉を粉々にし固形にし乾燥させた緊圧茶が主流でした。
茶葉はすでに全国で栽培されるようになっていたようですが、交通が不便なこの時代に栽培地から消費地(上流階級の家)まで運ぶには、緊圧茶が合理的だったのだろうと想像します。
なおこの頃にはこのような固形の緊圧茶を「餅茶」と呼んでいました。
●租庸調制度が崩壊した時、政府は不足する税収をまかなうために塩・酒・茶が専売とされ原価の30倍以上の税がかけられましたが、このころすでにお茶を飲む風習が広がっていたことがしのばれます。
●この頃には茶具が発達し、唐代の茶器は台湾、台北市の故宮博物館に現存しています。
●そして何よりも唐代の功績はお茶のバイブルとも言える陸羽の『茶経』が書かれたことです。
お茶の効能や製法だけに止まらず、飲み方や茶器にまでふれ、後の中国茶の発展に大きな貢献をしました。
もちろん、後の日本茶道にも大きな影響を与えています。
■ 宋時代
●宋の時代には、それまでの貴族文化にとって代わり、貨幣経済を背景とした市民文化が栄えました。
お茶が貴族から富裕市民のものへと変遷していく中でお茶の飲み方も変わっていきました。
●お茶もそれまでの緊圧茶を使用し、茶葉をすってこなごなにした粉末を、茶碗に入れてお茶とかき混ぜるという日本でいう抹茶のような飲み方がされるようになってきました。
この頃には茶筅(ちゃせん)が使われていたということです。
なお、「餅茶」の呼び方が変わって「団茶」と呼ばれていたようです。
■ 元時代
●元は北方の騎馬民族であるモンゴル族が開いた王朝であり、かさばる茶葉の形よりも緊圧茶が発展した時代です。
この時代はシルクロードを通して西方の技術が取り入れられた時代でもあり、西アジアからコバルトを輸入して景徳鎮で焼くなどの手法が可能となり、青磁器技術が大いに発展した時代でもあります。
■ 明時代
●この時代に緊圧茶はお茶本来の美味しさを損ない、しかも手間もかかると言う事で、皇帝により緊圧茶禁止令が出され、
また貢茶(皇帝に茶を献上する事)も廃止されました。
そもそも固形に固めるという面倒くさい工程を必要とする緊圧茶がお茶の始まりではありえるはずもなく、
昔は茶葉のままで飲まれていたと考えるのが普通であり、元々の姿に戻ったとも言える。
●安定した明の体制に支えられ、貴族と富裕市民に限られていた喫茶の習慣が、都市市民へと普及していきます。
淅江省や江蘇省がお茶の産地として知られるようになり、龍井茶などが有名となりました。
●緊圧茶が禁止され、緑茶が普及すると、お茶の色が薄くなり、お茶の色を引き立たせるために青花等の茶碗が珍重されるようになり、それと同時に茶壷(急須)にも手の込んだ物が出現し、普及していきました。
所は中国、時ははるか昔の事である。体は人間で牛の頭を持つ神農という神がいた。
神農のお腹は水晶でできており、食べた物の様子がよく分かるので毒でも草でも食べて人間に食べられるかどうかを教えていたという。
ある日、彼は偶然お茶の葉を見つけた。
毒を食べた後にお茶の葉を食べると、腹の中が浄化されることを発見した神農は、以後毒を食べるたびにお茶の葉を食べて腹を清めていたという。
●時は昔の事である。一人の皇帝が狩に森に出かけたという。狩に疲れた彼は、お湯を飲もうと、従者に釜を使い水を沸かせていた。
しかし、場所は森のことである。ある葉っぱがひらひらと釜の中に入ってしまった。皇帝が怒るのを恐れた従者は、もう一度水を沸かそうとした。
しかし、のどが渇いていた皇帝は気にせずその湯を飲んでしまった。
意外にも、お湯よりもおいしい。
以後、皇帝はその葉っぱをお湯に入れて飲むようになったという。
■ お茶の始まり
●お茶に関わる神話は現在までたくさん残されています。しかし、実際のところ、お茶の始まりはまったく分かっていません。
一体誰がお茶を発見し、どのような目的でお茶を飲みはじめたのか・・・、今となっては想像するほか無いのです。
昔には野生の大型の樹からとられていたものが、徐々に栽培用に小型化して現在のように茶畑で栽培されるようになりました。
●お茶の原産地はインド北部から中国南部にかけての熱帯・亜熱帯地方であると考えられています。
唐の時代(西暦800年頃)、かの有名な陸羽が書いた『茶経』は「茶者、南方之嘉木也」(「茶は南方の嘉木なり」)で始まっており、
初期のお茶は南方で始まったと考えるのが定説です。特に雲南一体辺りではないかと考えている人が多いようです。
雲南には変わったお茶の飲み方が多くあり、それらは昔の飲み方がそのまま残っているのではないかと考えられています。
例えば、茶樹からつんできたばかりの茶葉を囲炉裏でいぶり、釜でお湯と一緒に煮るだけの飲み方などはごく初期の飲み方を彷彿とさせます。
●漢の時代(紀元前1世紀)に書かれた医学書『神農本草記』には「茶味苦、飲之使人益思、少臥、軽身、明目」などという記述が残されており、
すでにこの頃にはお茶の薬としての効能が知られていたという事になります。
また三国志で有名な後漢の名医華佗もお茶の効能について『食経』という本でふれています。
この頃のお茶は、上流階級の薬用として主に用いられていました。
●その後間もなく、お茶は薬用よりも嗜好品として主に上流階級の人々に愛飲されるようになりました。
三国時代のある文献には「以茶代酒」(お茶を酒にみたてて飲む)という記述が残されているようです。
■ 唐時代
●唐の時代にはお茶の飲む習慣はすでに全国に広まっていました。
この頃のお茶は、茶葉を粉々にし固形にし乾燥させた緊圧茶が主流でした。
茶葉はすでに全国で栽培されるようになっていたようですが、交通が不便なこの時代に栽培地から消費地(上流階級の家)まで運ぶには、緊圧茶が合理的だったのだろうと想像します。
なおこの頃にはこのような固形の緊圧茶を「餅茶」と呼んでいました。
●租庸調制度が崩壊した時、政府は不足する税収をまかなうために塩・酒・茶が専売とされ原価の30倍以上の税がかけられましたが、このころすでにお茶を飲む風習が広がっていたことがしのばれます。
●この頃には茶具が発達し、唐代の茶器は台湾、台北市の故宮博物館に現存しています。
●そして何よりも唐代の功績はお茶のバイブルとも言える陸羽の『茶経』が書かれたことです。
お茶の効能や製法だけに止まらず、飲み方や茶器にまでふれ、後の中国茶の発展に大きな貢献をしました。
もちろん、後の日本茶道にも大きな影響を与えています。
■ 宋時代
●宋の時代には、それまでの貴族文化にとって代わり、貨幣経済を背景とした市民文化が栄えました。
お茶が貴族から富裕市民のものへと変遷していく中でお茶の飲み方も変わっていきました。
●お茶もそれまでの緊圧茶を使用し、茶葉をすってこなごなにした粉末を、茶碗に入れてお茶とかき混ぜるという日本でいう抹茶のような飲み方がされるようになってきました。
この頃には茶筅(ちゃせん)が使われていたということです。
なお、「餅茶」の呼び方が変わって「団茶」と呼ばれていたようです。
■ 元時代
●元は北方の騎馬民族であるモンゴル族が開いた王朝であり、かさばる茶葉の形よりも緊圧茶が発展した時代です。
この時代はシルクロードを通して西方の技術が取り入れられた時代でもあり、西アジアからコバルトを輸入して景徳鎮で焼くなどの手法が可能となり、青磁器技術が大いに発展した時代でもあります。
■ 明時代
●この時代に緊圧茶はお茶本来の美味しさを損ない、しかも手間もかかると言う事で、皇帝により緊圧茶禁止令が出され、
また貢茶(皇帝に茶を献上する事)も廃止されました。
そもそも固形に固めるという面倒くさい工程を必要とする緊圧茶がお茶の始まりではありえるはずもなく、
昔は茶葉のままで飲まれていたと考えるのが普通であり、元々の姿に戻ったとも言える。
●安定した明の体制に支えられ、貴族と富裕市民に限られていた喫茶の習慣が、都市市民へと普及していきます。
淅江省や江蘇省がお茶の産地として知られるようになり、龍井茶などが有名となりました。
●緊圧茶が禁止され、緑茶が普及すると、お茶の色が薄くなり、お茶の色を引き立たせるために青花等の茶碗が珍重されるようになり、それと同時に茶壷(急須)にも手の込んだ物が出現し、普及していきました。
コメント
お茶に取り付かれた男の独白です。
結構、お勧めです♪
なるほどーそういう短編があるんですかー。勉強になります。有り難う御座います。^^
歴史にも詳しいンですね。^^ノ