■イギリスへはじめて入った頃のお茶
紅茶消費の中心のイギリスにお茶が最初に輸入されたのがいつか、ということですが、これは当時繁栄を誇ったオランダから輸入されました。
オランダ人が日本と中国からそれぞれお茶を買いつけてジャワ島のバンタムからオランダ船に積んで本国に送ったのが1610年頃で、オランダの連合東インド会社のアムステルダムのサロンで使われたようです。
1630年代の中頃から、オランダは近隣諸国のドイツ、フランス、イギリス等へもお茶を売るようになったようです。
つまり、中国からお茶を輸入し、ヨーロッパに広めたのはオランダです。この頃は、オランダの王侯・上流階級の間で飲まれていました。
オランダ人は苦いお茶に高価な砂糖を入れて飲んでいたようです。また、茶碗から受け皿に移して、それを啜っていたといいます。
上流階級の女主人のもてなしとしてお茶は使われていたようです。
又、ミルクを入れる飲み方がはじまったのもこの頃(1655年〜1680年頃)ではないかと言われています。
最初、イギリスでは、オランダで喫茶の経験をしたイギリス貴族が飲んだ程度のようです。
むしろ、フランスへの普及が早かったようです。ただ、これは一部階級にとどまり、すぐに廃れていってしまいます。
1662年国王チャールズ2世のもとへ嫁いできたポルトガル王の娘キャサリン王妃が東洋趣味で、喫茶の風を宮廷にもたらしたことから、茶はイギリス宮廷の飲物となったといわれます。
イギリスでは、1651年の「航海条例」の制定により、イギリスへの茶の輸入は、すべてイギリス国籍の船によってのみ許可されることになり、オランダ海運業の締め出しを図りました。
この翌年からの英蘭戦争をきっかけに、イギリスはオランダから中国貿易の主導権を奪っていきます。
■イギリスでのお茶の普及
1689年オレンジ公ウイリアム3世とメアリー女王の代になり、東インド会社が福建省の厦門と直接の交易をはじめ、イギリスでの東洋趣味が一気に高まり、上流階級の家庭でも中国の急須や茶碗を買い求め、茶を飲むようになっていきます。
18世紀初め、アン女王は大の美食家で、朝食に必ず茶を飲み、宮廷では茶会を楽しみ、一日中何度も茶を飲んだといいます。
当時のお茶は、紅茶ではなく緑茶・烏龍茶です。
1700年に東インド会社が中国からイギリスに運んだ積荷のお茶の内訳は、たとえば、安徽省の下級緑茶300梱と福建省の下級烏龍茶80梱であったりします。
1720年頃には、女王にあやかって、銀のポットや中国製の陶磁器ののポットを使って、茶を客の目の前で淹れることが上流階級でのステータスシンボルとなり、客人がお茶の席で女主人と会話を楽しむのが社交のエチケットであるとされるようになっていきます。
1720年頃には主として値段の安い粉緑茶が多く輸入され、イギリス人に飲まれており、茶の関税引き下げにより、中国からの輸入量は100万ポンドを超えるまでになりました。
その頃中国茶の輸入の独占権を得た、イギリスの東インド会社の中国茶輸入量は増え続け、1760年には東インド会社の輸入金額の40%を占めるようになります。
このときには、イギリスのお茶の消費量はすでに他のヨーロッパ諸国の全消費量の約3倍に達していました。
18世紀後半には、イギリスにもスタッフォードシャーを中心に窯業がおこり、イギリス独自の陶磁器が大量生産できるようになります。
■南洋航海中に紅茶ができた?
有名な俗説があります。
「中国からイギリスにお茶がインド洋を通って船で運ばれていく途中に、赤道を通過してくるため、湿度と温度が高くなり、発酵して紅茶になり、そのブラックティーはロンドンで歓迎された。これが紅茶のはじまり云々。」
これは間違いです。
当時も緑茶は製造初期段階で釜炒りによって酸化酵素を完全に失活した状態にしており、船で赤道を越えるくらいで変質するのはありえないことでした。緑茶と紅茶の違いは茶葉摘採直後の製造法で決定されるものです。
■紅茶のはじまり
それでは、紅茶はどのようにして生まれたのでしょうか。
福建省武夷山の烏龍茶を進化させて、安徽省の祁門で紅茶が生まれたようです。
一説には、1784年に余干臣が宦官をやめて商人になり福建省から安徽省にやってきて、福建省の発酵茶「工夫茶」にならって東至県に工場を設立し、工夫茶にならって茶の製造を始めた。次の年には、祁門県(祁の偏は[示]です)に二ヶ所の製茶工場を設立して「祁門紅茶」を造りこれを拡大していった、といいます。
また一説には、1786年に祁門の南の貴渓の胡元竜が日順茶工場を開設して、烏龍茶を改良して「祁門紅茶」を完成させた、といいます。
■イギリスに受け入れられた工夫紅茶
初期にイギリスにもたらされていた武夷の烏龍茶は、最下級のもので、高級茶用に摘み取ったあとの三番茶を輸出用に広東まで運んで略式の製茶工場で製茶したもので、品質の悪い安価な大衆向けの輸出品でした。
このため、最初は粉緑茶がイギリスでの喫茶の中心でした。
しかし、東インド会社の独占の裏で密輸業者が大量に輩出し、また、茶業者では輸入した緑茶に茶以外の植物や不純物を混ぜることが流行し、緑茶も決して質の良いものとは言えなくなっていました。
また、肉類主体の食生活には、烏龍茶の方が口の中の油脂分をさっぱりと流してくれるということも知られ、烏龍茶や烏龍茶の中でも発酵度合いの強いものにイギリスでの需要が向いていった頃でした。
もともと祁門は品質の良い緑茶の生産地ですが、祁門で生まれた質の良い工夫紅茶は、高値で取引され、イギリスでこの酸化発酵の度合いの強い工夫紅茶はすぐに広まりました。
紅茶の前身となった福建省の武夷茶が日乾式だったのに対し、祁門紅茶は焙製(籠に入れて炭火で熱して乾燥させる)になるなど、イギリスへの輸出をにらんで生産法を進歩させたものでした。
なお、「工夫(コングー)」とは、手間隙かけているという意味です。
紅茶消費の中心のイギリスにお茶が最初に輸入されたのがいつか、ということですが、これは当時繁栄を誇ったオランダから輸入されました。
オランダ人が日本と中国からそれぞれお茶を買いつけてジャワ島のバンタムからオランダ船に積んで本国に送ったのが1610年頃で、オランダの連合東インド会社のアムステルダムのサロンで使われたようです。
1630年代の中頃から、オランダは近隣諸国のドイツ、フランス、イギリス等へもお茶を売るようになったようです。
つまり、中国からお茶を輸入し、ヨーロッパに広めたのはオランダです。この頃は、オランダの王侯・上流階級の間で飲まれていました。
オランダ人は苦いお茶に高価な砂糖を入れて飲んでいたようです。また、茶碗から受け皿に移して、それを啜っていたといいます。
上流階級の女主人のもてなしとしてお茶は使われていたようです。
又、ミルクを入れる飲み方がはじまったのもこの頃(1655年〜1680年頃)ではないかと言われています。
最初、イギリスでは、オランダで喫茶の経験をしたイギリス貴族が飲んだ程度のようです。
むしろ、フランスへの普及が早かったようです。ただ、これは一部階級にとどまり、すぐに廃れていってしまいます。
1662年国王チャールズ2世のもとへ嫁いできたポルトガル王の娘キャサリン王妃が東洋趣味で、喫茶の風を宮廷にもたらしたことから、茶はイギリス宮廷の飲物となったといわれます。
イギリスでは、1651年の「航海条例」の制定により、イギリスへの茶の輸入は、すべてイギリス国籍の船によってのみ許可されることになり、オランダ海運業の締め出しを図りました。
この翌年からの英蘭戦争をきっかけに、イギリスはオランダから中国貿易の主導権を奪っていきます。
■イギリスでのお茶の普及
1689年オレンジ公ウイリアム3世とメアリー女王の代になり、東インド会社が福建省の厦門と直接の交易をはじめ、イギリスでの東洋趣味が一気に高まり、上流階級の家庭でも中国の急須や茶碗を買い求め、茶を飲むようになっていきます。
18世紀初め、アン女王は大の美食家で、朝食に必ず茶を飲み、宮廷では茶会を楽しみ、一日中何度も茶を飲んだといいます。
当時のお茶は、紅茶ではなく緑茶・烏龍茶です。
1700年に東インド会社が中国からイギリスに運んだ積荷のお茶の内訳は、たとえば、安徽省の下級緑茶300梱と福建省の下級烏龍茶80梱であったりします。
1720年頃には、女王にあやかって、銀のポットや中国製の陶磁器ののポットを使って、茶を客の目の前で淹れることが上流階級でのステータスシンボルとなり、客人がお茶の席で女主人と会話を楽しむのが社交のエチケットであるとされるようになっていきます。
1720年頃には主として値段の安い粉緑茶が多く輸入され、イギリス人に飲まれており、茶の関税引き下げにより、中国からの輸入量は100万ポンドを超えるまでになりました。
その頃中国茶の輸入の独占権を得た、イギリスの東インド会社の中国茶輸入量は増え続け、1760年には東インド会社の輸入金額の40%を占めるようになります。
このときには、イギリスのお茶の消費量はすでに他のヨーロッパ諸国の全消費量の約3倍に達していました。
18世紀後半には、イギリスにもスタッフォードシャーを中心に窯業がおこり、イギリス独自の陶磁器が大量生産できるようになります。
■南洋航海中に紅茶ができた?
有名な俗説があります。
「中国からイギリスにお茶がインド洋を通って船で運ばれていく途中に、赤道を通過してくるため、湿度と温度が高くなり、発酵して紅茶になり、そのブラックティーはロンドンで歓迎された。これが紅茶のはじまり云々。」
これは間違いです。
当時も緑茶は製造初期段階で釜炒りによって酸化酵素を完全に失活した状態にしており、船で赤道を越えるくらいで変質するのはありえないことでした。緑茶と紅茶の違いは茶葉摘採直後の製造法で決定されるものです。
■紅茶のはじまり
それでは、紅茶はどのようにして生まれたのでしょうか。
福建省武夷山の烏龍茶を進化させて、安徽省の祁門で紅茶が生まれたようです。
一説には、1784年に余干臣が宦官をやめて商人になり福建省から安徽省にやってきて、福建省の発酵茶「工夫茶」にならって東至県に工場を設立し、工夫茶にならって茶の製造を始めた。次の年には、祁門県(祁の偏は[示]です)に二ヶ所の製茶工場を設立して「祁門紅茶」を造りこれを拡大していった、といいます。
また一説には、1786年に祁門の南の貴渓の胡元竜が日順茶工場を開設して、烏龍茶を改良して「祁門紅茶」を完成させた、といいます。
■イギリスに受け入れられた工夫紅茶
初期にイギリスにもたらされていた武夷の烏龍茶は、最下級のもので、高級茶用に摘み取ったあとの三番茶を輸出用に広東まで運んで略式の製茶工場で製茶したもので、品質の悪い安価な大衆向けの輸出品でした。
このため、最初は粉緑茶がイギリスでの喫茶の中心でした。
しかし、東インド会社の独占の裏で密輸業者が大量に輩出し、また、茶業者では輸入した緑茶に茶以外の植物や不純物を混ぜることが流行し、緑茶も決して質の良いものとは言えなくなっていました。
また、肉類主体の食生活には、烏龍茶の方が口の中の油脂分をさっぱりと流してくれるということも知られ、烏龍茶や烏龍茶の中でも発酵度合いの強いものにイギリスでの需要が向いていった頃でした。
もともと祁門は品質の良い緑茶の生産地ですが、祁門で生まれた質の良い工夫紅茶は、高値で取引され、イギリスでこの酸化発酵の度合いの強い工夫紅茶はすぐに広まりました。
紅茶の前身となった福建省の武夷茶が日乾式だったのに対し、祁門紅茶は焙製(籠に入れて炭火で熱して乾燥させる)になるなど、イギリスへの輸出をにらんで生産法を進歩させたものでした。
なお、「工夫(コングー)」とは、手間隙かけているという意味です。
コメント
前にある、ファミマーに紅茶買に行きました。(笑い)
いつも「プチッ!」有難うございます。
どもども〜こちらこそこれからもヨロシクお願いします。^^