関羽さまに会う!!!
蜀の国(成都)に行ってまいりました。
成都にはパンダが居ます。ちなみにLVは50!@@;
でも襲ってきたりはしません。一種の観光名所みたいです。

蜀でも有名武将の方々と会ってまいりました。
関羽さまです!!!!

なんか猪や狼やらを倒していると普通の狩りゲーにしか思えないのですが、有名武将様方と会ってる時には、嗚呼・・・・三国志しているなぁ・・・・・とか思えます。
やっぱり有名武将はグラフィックの書き込みとかデザインとかも気合い入ってて凄い感じがします。

関羽さま 引用「ウィキペディア」より
関羽(かんう、- 219年)は中国三国時代の蜀漢の武将。字は雲長。元の字は長生。
司隷・河東郡解良(現在の山西省運城市常平郷常平村)の人。封号は漢寿亭侯。諡は壮穆侯。見事な鬚髯(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)をたくわえていたため「美髯公」などとも呼ばれる。子は関平・関興。

その武勇、曹操が義理堅いと評した事から、後世の人間が神格化し関帝(関聖帝君・関帝聖君)とし、47人目の神とした。信義に厚い事などから、現在では商売の神として世界中の中華街で祭られている。そろばんを発明したという伝説まである。

『三国志演義』では、「雲長又は関雲長或いは関公、関某と呼ばれ、一貫して諱を名指しされていない」、「大活躍する場面が壮麗に描かれている」など、前述の関帝信仰に起因すると思われる特別扱いを受けている。

その生涯
彼の出身地は中国最大の塩湖である「解池」の近くにあり、その出身地から塩の密売に関っていたといわれている。また、暴利をむさぼる塩商人を殺したともいわれている。官吏に追われて幽州に逃げ、おそらく姓名を変えて関羽と名乗った。その後、劉備・張飛と出会い、終生劉備に忠誠を尽くした。黄巾の乱の時からの劉備の部下。地元・山西省の研究では、関羽は劉備より年上ながら、劉備を兄として仕えたという。

曹操が呂布を破った後、劉備が曹操を裏切って敗れ袁紹の元に逃げると、曹操の捕虜になった。曹操は関羽を偏将軍に任命し、非常に手厚く礼遇した。だが、関羽は功績を立てて曹操に恩返しをしてから、劉備の下へ戻ろうと考えていた。官渡の戦いでは、関羽は敵将の顔良の旗印と車蓋を見ると、馬に鞭打って突撃し、大軍の真っ只中で顔良を刺し殺し、顔良の首を持ち帰った。曹操は即刻上表して、漢寿亭侯に封じた。顔良を討ち取るという功を立てた関羽は必ずや劉備のもとに戻ると曹操は考え、関羽に重い恩賞を与えた。関羽はこれらの賜り物に封印をして、曹操に手紙を捧げて別れを告げ、袁紹の下にいる劉備の下へ去った。曹操はその義に感嘆し、関羽を追いかけようとする部下に対して、彼を追ってはならないと言い聞かせた。

赤壁の戦いの後、劉備が益州を攻略すると、関羽は荊州の守備を任され、魏・呉に睨みを効かせていた。しかし荊州に駐屯していた魏将の楽進になんらかの形で敗走させられている。彼の荊州の統治ぶりは、呉志『陸遜伝』によれば、恩得と威信が行き渡っていたものであったようだ。しかし関羽は部下には優しいが、同格の士大夫を見下すという悪い癖があり、このことが後に彼自身の災いを招くこととなる(関羽は庶人から成り上がっており、もともと士大夫より低い身分だった。反対に張飛は部下には苛酷だが、士大夫は尊敬するという性格であった)。

215年に、呉の魯粛・呂蒙らが長沙・桂陽・零陵の三郡を襲撃すると、関羽は三万の兵を率いて益陽に布陣。劉備も大軍を率いて関羽の助成に駆けつけ、一時は蜀呉同盟の崩壊の危機に至った。だが、関羽と通じた長沙の安成、攸、茶陵の三県、揚州廬陵の永新県の官吏らが桂陽の陰山城で謀反を起こし、続けて中郎将の袁龍らが反乱を起こしたこと、さらにこの年、曹操が大軍を率いて漢中の張魯を攻撃したこと、これらが両陣営に和平の機運をもたらし、関羽と魯粛の対談が実現した。結果、湘水を境界線とし、長沙・江夏・桂陽は呉領に、南郡・武陵、そして一度は奪われた零陵が蜀領となった。

219年、劉備が漢中王を称し、関羽は前将軍・仮節に任じられた。この年、関羽は水陸両軍を率い、息子の関平、都督の趙累らとともに樊城を守る曹仁を攻撃した。曹仁の援軍として、七軍を率いた于禁が駆けつけるが、折からの悪天候により大洪水が起こり、七軍は水没。関羽は船団を率いて攻撃をかけ、于禁を降伏させ、ホウ徳を斬った。また、このとき魏の荊州刺史・胡修、南郷太守・傅方らが関羽に降っている。関羽は樊城を完全に包囲し、別将を派遣して襄陽までも包囲した。さらに関羽は方々に印綬をばら撒き、魏領内の群盗などが一斉に蜂起。魏丞相掾・魏諷までもが関羽に通じて反逆を起こし、中原は震動。曹操は遷都まで考えたほどであった。

だがそれより前、呉の孫権から関羽の娘に、彼の息子との婚姻の申し入れがあったとき、関羽はこれを断り(「虎の娘を犬の子にはやらん」との発言が『三国志演義』等に見られるが、正史には見られない。 ちなみに民間伝説では関銀屏という名前がある )、孫権を怒らせたことがあった。曹操の部下の司馬懿と蒋済は関羽と孫権の仲が悪くなったことを見計らって呉と同盟を結ぶ事を提案し、曹操は呉と同盟を結んだ。これで逆に魏と呉の軍に挟撃されてしまう事になる。さらに孫権は、関羽に不満を持っていた麋芳と傅士仁に誘いをかけ寝返らせ、江陵・公安を奪った。一方の魏も徐晃を派遣して曹仁を救援させた。関羽は結局勝利を得ることができず敗走した。孫権はすでに江陵を占領しており、関羽の部下やその妻子たちを捕虜にしていたので、関羽の軍は四散した。ついに臨沮で関羽と関平は退路を断たれ、呂蒙、陸遜の策をもって潘璋の部下・馬忠の罠により捕らえられ、呂蒙、陸遜らによって斬首された。一説では、孫権は関羽の武勇を惜しみ、部下として使いたいと願ったが、側近にたしなめられたとされている。

関羽の首は、孫権の使者によって曹操のもとへ送られ、曹操は国葬という諸侯の礼をもって彼を葬った。 曹操によるこの処置は異例の事であった。蜀に対する外交政策にもとれるが、曹操が関羽を欲しがり、恐れていたことを考えると心から礼節を尽くしたといえる。曹操はこの式の後、然程間を置かずに病死している。

また、この戦で大功を立てた呉都督・呂蒙は、関羽の死から二ヵ月後に、かねてからの病がぶり返して死んだ。 関羽の恩徳を慕った民衆は、呂蒙・曹操や、その他の樊城攻撃に携わった人間達が、次々と死んでいく様を「関公(関羽の敬称)の祟りだ」と噂し、後世にも伝わる関羽伝承をまことしやかに語ったという。

関羽を殺された劉備は怒りのあまり、呉に対して夷陵の戦いを起こしたが、大敗を喫した。

260年、蜀漢より壮穆侯の諡号を送られた。

263年に蜀が滅び鍾会のクーデターによって無法状態になった成都で関羽の一族は誅殺されたと言われているが、定かではない。この事は東晋の王隠著『蜀記』に記されているが、『蜀記』は陳寿の『三国志』に注をつけた裴松之が信用できないと非難しているためである。ちなみに、今現在関羽62代目の子孫を名乗る関新剛が中国に存在するが、関羽の子孫かどうか実際の所は不明である。

その人物
武を誇る一方で、学問を好み、『春秋左氏伝』を諳んじるなど文武両道の面を持っていた。また敵方でありながら張遼、徐晃とは親交があり、彼らとは互いに尊敬しあっていた。 同時代の人々からは関羽の武勇は張飛と並んで一万の敵に相当するといわれているが、一方では、「自分の勇名を恃んで猪突猛進してしばしば兵を失う」(蜀書・廖立伝)という批判もあった。 またプライドが高く、黄忠が後将軍に任じられた際「あんな老いぼれと一緒か」と不満を表し、前将軍への就任を拒否したこともある。 三国志を著した陳寿は、正史・関羽伝の最後に張飛の人物評と併せてこのように記述している。 「関羽・張飛の二人は、一騎で万の敵に対する武勇があると賞賛され、一世を風靡する剛勇の持ち主であった。関羽は顔良を斬ることで曹操に恩返しを果たして去り、張飛は厳顔の義心に感じ入ってその縄目を解き、両者並んで国士と呼ぶに相応しい気風を備えていた。しかし、関羽は剛毅が行き過ぎて傲慢であり、張飛は乱暴で部下に恩愛をかける配慮が無く、これらの短所が仇となって、あえなく最期を遂げる事となった。世の理とは、こういうものなのだ」(「關羽、張飛皆稱萬人之敵、為世虎臣。羽報效曹公、飛義釋嚴顔。並有國士之風。然羽剛而自矜、飛暴而無恩、以短敢敗。理數之常也」『蜀志・関羽伝』)

なお、221年に曹丕(文帝)が劉備が呉に報復を行うか、と臣下に諮った際に、臣下は「名将と呼べるのは関羽一人である」と答えており、敵国である魏においても武将としての関羽の評価は高かった事を伺わせる(魏志『劉曄伝』)。同じ劉曄伝には「勇三軍に冠として将たり」ともある。

また算盤(そろばん)を開発したという伝説があり、関帝廟などにはそうした説が伝わっている。

真偽は定かではないがプライドが非常に高かったため、諸葛亮が関羽にご機嫌をうかがう旨の手紙を出したといわれる。

後に、民衆の人気が凄く高かった関羽さまは神に祭り上げられます。
各地に関帝廟とかがあるのは其の為です。

何故関羽さまが神になったかのエピソードは
関羽さまは死後自分の首を探して亡霊悪鬼となっていました。そして世を呪っていました。
その或る日、凄い高僧が宿に泊まった時、関羽さまの亡霊が高僧に襲いかかりました。
高僧はそれが関羽の亡霊だと知ると言いました。
「生きている時は世の混乱を治そうと義によって立ち上がった貴方は何故今このような事をしているのか?」
「貴方に討たれた武将が何人いるか数えてごらんなさい!」
其の言葉を聞いた関羽さまは自らの過ちに気づき改心して高僧に弟子入りをします。
とても大変な修行をした関羽さまは神仙と同様の力を持つ事となりました。
そして一般大衆を加護しているのです。

後、都市伝説ですが、
日本の戦後に横浜の方面で疫病が流行してしまいました。
沢山の人が死に苦しむなか人々はどうする事も出来ませんでした。
ある日、その横浜の方面で一人の人が関羽さまの像を背中にしょって走り回る姿がありました。
その人は横浜の其の疫病の流行った方面を一生懸命走り回りました。
すると不思議な事に次の日から疫病が消えて無くなった・・・・という都市伝説があります。
(横浜)中華街などで関羽さまの関帝病が大切に祭られているのは其の為とも言われています。

偉大な武将関羽さまは、今でも伝説を残しているのです!

シ水関のエピソード(三国志演義より)
シ水関には董卓軍猛将・華雄が陣取っている。豪傑が幾人も華雄の武の前に撤退する中、名乗りを上げたのがまだ無名の関羽であった。
群雄達は関羽の暴挙ともいえる行動を非難するが、曹操が関羽を擁護し、景気付けに酒を勧める。
関羽はそれを受け取らずに華雄に挑み、見事首級を上げた。曹操の手の中にあった酒は、まだ温かかったと言う。

 
 
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