周瑜公瑾 様
呉の国の都督「周瑜」様です。

揚州廬江郡の人。三公の一つである太尉を二名出した名家に生まれ、成長してからは立派な風采を備えるようになった。若い頃より音楽にも精通し、演奏を聴いていると、たとえ酔っ払っていても僅かな間違いを聞き取った。これにより「曲に誤りあれば周郎が振り向く」と言われた。

孫堅が反董卓の義兵を挙げた際、孫策は母を連れて住まいを舒に移した際、同い年の周瑜と篤く親交を深めた。二人の友情は「断金」、つまり金属を断つほどに堅い絆で結ばれていた。孫堅亡き後、袁術の元にいた孫策が江東(呉)へ軍を挙げると(194年)、周瑜もこれに付き添って功績を挙げた。

その後、揚州北部の皖を攻め落とし、この時、橋公の二人の娘(二橋)の姉の大橋を孫策の、妹の小橋を周瑜の妻にした。『三国志演義』では、二喬は、喬玄の娘で「江東の二喬」と呼ばれており、姉は大喬、妹は小喬と呼ばれ絶世の美女とされていた。

その後孫策が急死し、弟の孫権が後継者となった。孫権の母親である呉夫人は、周瑜を孫策同様に兄事するよう孫権に説き、周瑜は張昭と新政権の様々な処務を取り仕切る事となった。この頃諸将や賓客の中には継いだばかりの孫権を軽んずる者もあったが、この時周瑜は自ら率先して敬意を尽くし、臣下の礼を取って規範を示した。

建安十一年(206年)、山越討伐を行う。孫瑜らを用いて麻・保、二つの屯所を攻略すると、捕虜は一万人余りに上り、引き揚げて官亭を守備した。 この後、江夏太守の黄祖が部将・?竜に軍勢数千人を預けて孫権軍の前線基地・柴桑に侵入させると、周瑜はこれを追討して攻撃し、?竜を生け捕りにして呉に送還した。 建安十三年(208年)春、前部大督(前線総司令)に任命された周瑜は江夏の黄祖を攻略し、これを撃破。孫堅以来かねてよりの仇敵を討ち滅ぼす事に成功する。

同年九月、河北の統一を果たして覇者となった曹操が軍を率いて南下する。荊州を降伏させてその兵士を吸収すると、水兵歩兵あわせて八十万ともいわれる大軍になった。 この事態を受けた当時の孫権陣営では降伏論者が多数を占めていたが、この時周瑜は魯粛と共に意見を同じくし、徹底抗戦を主張した。周瑜は曹操軍が冒している数々の不利と、対する自軍の利を理路整然と説き、これによって意を得た孫権は曹操に対抗する事を決断する。

孫権は精兵三万を周瑜および程普らに与え、この時荊州から逃れてきた劉備と協力して共に曹操を迎撃させ、赤壁の地で対峙した。果たして周瑜の予測した通り、この時曹操軍はすでに軍中に疫病を抱えており、一度の交戦で曹操軍は敗退して、長江北岸に引き揚げていった。

そこで次に周瑜らは南岸に布陣すると、部将黄蓋の進言を採用して、曹操軍艦船の焼き討ちを計画する。降伏を偽装して接近に成功した(演義ではこの時苦肉の計が行われたとする)黄蓋が曹操軍の船団に火を放つとたちまち燃え広がり、ことごとく岸辺の陣営に延焼した。被害は多数に及んだために曹操軍はついに敗退し、引き返して南郡に楯籠った。

劉備が周瑜らと再度合流して追走すると、曹操は曹仁を江陵城の守備、楽進を襄陽の守備に残し、自らは北方へ撤退していった。大軍を擁した遠征で必ずや疫病を抱えるだろう事、船団の扱いに不慣れであろう事、曹操軍の弱点をすべて見越した周瑜の勝利である。

それに続いて孫権は呉にとっても重要な拠点となる江陵に目をつける。そこを守るのは魏の誇る歴戦の将、曹仁と徐晃であった。さすがにこの二将の守りは堅く、また曹仁も徐晃も勇猛なため簡単には落とせなかったが、周瑜はその機略を以ってうまく曹仁と徐晃の部隊を分けると、自ら曹仁軍を粉砕し(この時、曹仁は万余人の兵を失った)、そのまま江陵を攻め立てるがこの時周瑜は流れ矢を受けて負傷し、それが病へとつながった。だが周瑜は自分が重体であることを用いて有利に持っていき、ついに曹仁・徐晃らを撃破し、江陵より追い出した。これにより孫権は重要拠点・江陵を制圧することができた。しかしこの戦で周瑜の病は更に悪化してしまった。それでも周瑜は無理を押して孫権の元へ行き、益州の劉璋が惰弱なことから益州を占領し天下を曹操と分けるといういわゆる「天下二分の計」を立てる。が、これが周瑜が孫権への遺言となってしまった。実行に移すべく江陵へ帰還途中に36歳の短き人生を閉じた。

周瑜は度量が寛大で人の心を掴むことが得意だった。宿将程普とだけは折り合いが悪く、程普は若輩の周瑜を度々侮辱していたのだが、周瑜はあくまで膝を屈してへりくだり続けたので、その謙譲さに程普もとうとう感服し、尊重するようになったという。

また、曹操や劉備は周瑜の才能を恐れ、曹操は家臣の蒋幹を使者として周瑜の引き抜きを図り、劉備は孫権に虚言を述べて、孫権と周瑜を離間させようと図ったほどである。史実の周瑜は知略・武略に優れる名将であり、味方からは慕われ、敵からは恐れられた英雄だった。周瑜が長命であれば三国時代の歴史が大きく変わったであろうといわれる。

『三国志演義』での周瑜は、諸葛亮に翻弄され続ける損な役回りを負わされている。自らの策を全て見透かしてくる諸葛亮を危険視し暗殺を企むも果たせず、終始ライバル視しながら対抗するも遂に敵わず病に倒れる。臨終の際にも諸葛亮からの挑発的な書状を読み、「天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも生んだのだ!」と血を吐いて憤死するという哀れな最期となっている

なお京劇では周瑜は「美周郎」のあだ名の通り、二枚目が演じる役とされており、眉目秀麗な英雄としてのイメージが定着している。

(引用ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E7%91%9C

『三国志』周瑜伝全訳・原文
http://www.project-imagine.org/search2.cgi?text=wu9-1

周瑜公瑾
http://wakarusangoku.fc2web.com/jinbutu/shuyukousan.html
 
 
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コメント

nophoto
あいみん
2008年3月25日1:35

周瑜は三国1位2位を争う名将ですよね〜
千葉TVで放送中の三国志ドラマ
先週はちょうど周瑜が亡くなる回でして
最近は周瑜がたくさん出てました^^

リリファーム
リリファーム
2008年3月25日2:05

>>あいみん様
書き込みありがとうございます!!
三国志のドラマとかあるんですねっ!面白そうだなぁ・・・・・。
周瑜が長く生きてたら歴史にifはないけれど、やっぱり変わってたかもしれない・・・・・
・・・という位凄い人なのに三国志演義では諸葛亮の引き立て役なんですよねぇ・・・・。なんかちょっと気の毒にも思える感じですね。

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